【日の蔭りの中で】 京都大学教授・佐伯啓思 原発事故の意味するもの

日本のマスコミは馬鹿なので、脱原発のドイツ、スイス、イタリアばかりを報道する。

日本のなかの脱原発派は、経済縮小をよしとする貧乏神的な存在だろう。


転載:

http://http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110620/dst11062002160004-n1.htm

2011.6.20 02:16

 想定外かどうかはともかく、今回の大地震が原発事故を誘発したことは深刻な事態である。この問題はさしあたっては脱原発かそれとも原発推進かという二者択一で論じられているが、どうやら議論は膠着(こうちゃく)に陥り、決定的な視点が見いだせない。そして、その決定不能な宙づり状況こそ今日のわれわれの姿である。

 原発をどうするかは、むろん日本だけのことではなく、世界の主要国の共通の関心であり、その対応はそれぞれの国益や国情を反映している。中国やベトナムなど、いっそうの経済成長をめざす国は原発推進を表明し、アメリカも同様である。国内電力の8割を原発に依存するフランスもいち早く原発推進を打ち出した。

 一方、ドイツ、スイス、イタリアは現状では脱原発路線を打ち出している。特にイタリアは国民投票で明確に脱原発が表現された。ドイツなどが今後どのように推移するかは不明だが、これらの国は、将来のグローバルな市場競争での成長を追求するよりもむしろゆるやかな経済への傾斜をめざしているように見える。もしも、日本が脱原発に向かうとすると、スイスを除いて先の戦争の敗戦国が脱原発ということになり、そこに何か心理的なものがあるのかもしれない。

 しかし現状で日本は崩れゆく建屋の前にたたずんで呆然(ぼうぜん)としているようにみえる。じっさい、これは決定不能なのである。決断して選択するほかない。

 どうしてわれわれは決定不能な状態に陥っているのか。それは、これが「価値」にかかわる選択であり、そして「価値」についての選択をわれわれは極力回避してきたからではなかろうか。

 原発は近代技術の極致である。近代技術はどこかで人間の支配の領域を超えてしまう。近代技術をささえるものは専門科学であるが、専門科学は、つねに一定の仮定(想定)のもとで理論的な正解をだしてくる。その想定のもとで技術がつくられる。これは原発にせよ、ロケットにせよ、ITにせよ、遺伝子工学にせよ同じことだ。ところが、じっさいにはたいてい「想定外」のことがおきる。というよりむしろ近代技術そのものが「想定外」を生みだしてしまうのである。

 たとえば、3年ほど前にリーマン・ショックが起きたが、これなどまさしく「金融工学」という独特の技術が生みだしたパニックといっても過言ではない。「金融工学」という「技術」は、ITや統計学や数学の技法を駆使して金融取引のリスクを管理できるとした。それは一定の統計上の想定のもとでは成り立つが、じっさいには、金融工学を使った取引そのものが金融市場を不安定にして「想定外」を生みだしたのである。

 そこでわれわれは一つの逆説に直面する。それは、近代技術はある「想定」をおかねば成立しないのだが、ほかならぬその技術そのものが「想定外」の事態を生みだしてしまう、ということだ。

 今回の原発もその面が強い。発端は予想を超えた巨大津波だが、その後の事態がどう進行するのかは「想定外」になってしまい、管理不能に陥ったのである。

 こういう技術によってわれわれの生活が維持されていることをまずは知っておかねばならない。ITにせよ、遺伝子工学や生命技術にせよ、じっさい、いかなる「想定外」を生みだすかは不明といわねばならない。そして技術が高度化すればするほど、「想定外」が起きるリスクは高まるであろう。われわれはその途方もない危険を受け入れることで、今日の豊かさを作り上げてきた、というほかない。

 しかし、ほんとうのところわれわれ日本人にそれだけの自覚があったのだろうか。あるいは、豊かさであれ、経済成長であれ、近代技術への確信であれ、ともかくもある「価値」を選択的に選び取ってきたのだろうか。私にはどうもそうとも思われない。

 アメリカには強い科学技術への信仰や市場競争への信仰という「価値」がある。中国には、ともかくも大国化するという「価値」選択がある。ドイツにはどこかまだ自然主義的志向(あの「森」への志向)があるようにもみえる。では日本にあるのは何なのか。それがみえないのである。

 戦後日本は、大きな意味では国家的なあるいは国民的な「価値」選択をほとんど放棄してきた。アメリカ並みに豊かになりたいという漠然たる期待はあったが、それも「価値」をいうほどのことでもない。だからこそ逆に「価値」選択の必要のない近代技術を受け入れ、もっぱら技術に依存した豊かさを追求したのである。そこにアメリカのような技術信仰があったわけでもなく、ただ、他国がそうしているから、アメリカがそうしているから、というだけのことであったろう。状況を読むつもりが状況に追従することになっていった。しかし、そのおかげで価値を問うという面倒なことを回避できたのである。

 しかしもうそうはいかない。原発の将来は日本の将来の選択にかかってくるのである。脱原発は脱経済成長路線を意味するし、日本の国際競争力を落とす。そのことを覚悟しなければならない。一方、原発推進は、高いリスクを覚悟でグローバルな市場競争路線を維持することを意味する。グローバルな近代主義をいっそう徹底することである。いったいどちらを選ぶのか。どちらの将来像を選択するのか。われわれはただ原発そのものではなく、その将来像を「価値」選択しなければならないのである。(さえき けいし)
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